9月の展示会の打合せが終わり帰路につくときに
横浜の息子のようにつきあっている友人から電話があり
JIMAさんが亡くなったと未確認の噂を聞いたと言う
声が出なかった
詳しくは書けないけれど
彼JIMAさんはボクの恩人なのです
彼の大好きな7月4日のアメリカ独立記念日である
彼の誕生日
湘南を離れたボクは
毎年長電話をしては冗談ばかり話していた
彼は独身だったので連絡方法は携帯しかない
その携帯は呼び出し音だけが続く
帰ってから知人友人に電話かけまくり
真相を確かめたけど誰も詳しいことは分からない
で
最後の手段で横浜のある暴力団幹部に連絡して調べてもらった
彼らの調査能力は素晴らしく的確だからね
JIMAさんの実家の電話番号がすぐに分かった
すぐに実家にかけたよ
彼の声が聞こえたので安心した
単なる噂だったんだ
少し嬉しかった
・・・けど話が通じない
初めて話す彼の兄だった
彼とそっくりの声だよ
誕生日から一ヶ月後
8月4日に急性心不全で亡くなりましたと言われた
ボクの名前はJIMAから聞いていて
よく知っていると言ってくれた
ボクは逝去の連絡をくれなかった愚痴を言いたかった
ボクは彼との出会いから最近の交流までを話した
小さな頃には薬局の息子だったオフコースの小田和正を
よくいじめていたこと
若いときには赤いトライアンフに女の子を乗せて
乗り回し
横浜ではめだっていたこと
大学進学をあきらめたベトナム戦争の頃には
米軍のLST(上陸用舟艇)の乗組員だったこと
その経歴から
今でも横須賀や米軍基地はフリーパスで出入りが出来る
その後
船乗りになって世界各地を巡り歩いたこと
どこから手に入れたのか
骨董品のようなイギリス製の大きなテーブルや
松本民芸家具をバッサリと断裁して
きれいな塗装を剥がして
テーブルやカウンターをコツコツと作り上げ
小さな隠れ家のような静かなバーを
横浜の郊外富岡駅前に作った
ボクはBAR JIMA の看板を
彫る約束をして厚い材も用意していた
果たせなかったよ
電動のタトウマシンを手に入れて
お客の無い暇な時間には
一人で入れ墨の練習をしていた
練習台は自分だから
自分の両脚と左腕にしか彫ることが出来ない
試し彫りだから・・と
落書きみたいな図柄を見せて笑っていた
チョイ悪オヤジを地でいくカッコイイ人だった
サブカルチャーに詳しくて
アメリカ文化やJUNKな物が大好きで
いつも若いヤンチャ坊主や可愛い女の子に囲まれて
静かに声で小粋な話をするのが得意だった
一昨年の夏
旅先の鎌倉小町通りの小料理屋で
ライブが終わり打ち上げだという
ミュージシャン達と話していた
共通の友人であることが分かった
フラワートラベリングバンドや
内田裕也さんの話で盛り上がり
偶然 JIMAの話題が出てビックリ
お互いがJIMAと親しい間柄だとわかり
世間は狭いねと
その場で彼に電話をして驚かせたこともあった
彼との思い出話は尽きないよ
上京した折りにでも線香をあげてやって下さいと
反対に電話口でベソをかくボクは
静かに慰められて電話をきりました
ボクは悲しい酒を飲み
息子のような友人が描いたという
JIMAの肖像画を眺めて
喪に服しています