2009年8月22日土曜日

JIMAさんに捧げます

ブログに載せることではないと逡巡していた

肖像画に黒枠を描き足して
追悼したい

9月の展示会の打合せが終わり帰路につくときに

横浜の息子のようにつきあっている友人から電話があり

JIMAさんが亡くなったと未確認の噂を聞いたと言う

声が出なかった


詳しくは書けないけれど

彼JIMAさんはボクの恩人なのです


彼の大好きな7月4日のアメリカ独立記念日である

彼の誕生日


湘南を離れたボクは

毎年長電話をしては冗談ばかり話していた


彼は独身だったので連絡方法は携帯しかない

その携帯は呼び出し音だけが続く


帰ってから知人友人に電話かけまくり

真相を確かめたけど誰も詳しいことは分からない


最後の手段で横浜のある暴力団幹部に連絡して調べてもらった

彼らの調査能力は素晴らしく的確だからね


JIMAさんの実家の電話番号がすぐに分かった


すぐに実家にかけたよ

彼の声が聞こえたので安心した

単なる噂だったんだ

少し嬉しかった


・・・けど話が通じない

初めて話す彼の兄だった

彼とそっくりの声だよ


誕生日から一ヶ月後

8月4日に急性心不全で亡くなりましたと言われた

ボクの名前はJIMAから聞いていて

よく知っていると言ってくれた


ボクは逝去の連絡をくれなかった愚痴を言いたかった


ボクは彼との出会いから最近の交流までを話した


小さな頃には薬局の息子だったオフコースの小田和正を

よくいじめていたこと


若いときには赤いトライアンフに女の子を乗せて

乗り回し

横浜ではめだっていたこと


大学進学をあきらめたベトナム戦争の頃には

米軍のLST(上陸用舟艇)の乗組員だったこと

その経歴から

今でも横須賀や米軍基地はフリーパスで出入りが出来る


その後

船乗りになって世界各地を巡り歩いたこと


どこから手に入れたのか

骨董品のようなイギリス製の大きなテーブルや

松本民芸家具をバッサリと断裁して

きれいな塗装を剥がして

テーブルやカウンターをコツコツと作り上げ

小さな隠れ家のような静かなバーを

横浜の郊外富岡駅前に作った


ボクはBAR JIMA の看板を

彫る約束をして厚い材も用意していた

果たせなかったよ


電動のタトウマシンを手に入れて

お客の無い暇な時間には

一人で入れ墨の練習をしていた


練習台は自分だから

自分の両脚と左腕にしか彫ることが出来ない

試し彫りだから・・と

落書きみたいな図柄を見せて笑っていた


チョイ悪オヤジを地でいくカッコイイ人だった

サブカルチャーに詳しくて

アメリカ文化やJUNKな物が大好きで

いつも若いヤンチャ坊主や可愛い女の子に囲まれて

静かに声で小粋な話をするのが得意だった


一昨年の夏

旅先の鎌倉小町通りの小料理屋で

ライブが終わり打ち上げだという

ミュージシャン達と話していた


共通の友人であることが分かった

フラワートラベリングバンドや

内田裕也さんの話で盛り上がり


偶然 JIMAの話題が出てビックリ

お互いがJIMAと親しい間柄だとわかり

世間は狭いねと

その場で彼に電話をして驚かせたこともあった


彼との思い出話は尽きないよ



上京した折りにでも線香をあげてやって下さいと

反対に電話口でベソをかくボクは

静かに慰められて電話をきりました



ボクは悲しい酒を飲み

息子のような友人が描いたという

JIMAの肖像画を眺めて

喪に服しています